略縁起
寺伝によれば、教名房の祖父基真は、鹿島神宮の造営に際し工匠の指揮に当ったが、ある宵、仲秋の月を鹿島沖に詠めた際、波間に漂う奇木を宮居の一部にと持ち帰ったところ、同夜夢に老翁現れ、「こよい海上に得しは天竺仏生国より流離せる霊木なり。汝、児孫に伝えて雑用すべからず」と。
それより星霜数十年、聖人笠間に来遊されるに及び、四囲に連山をめぐらすたたずまい、南北に貫く清流、東方には布団きて寝たる姿の佐白山、すべてが京洛に彷彿たるばかりでなく、特に真言百坊所蔵の仏典漢籍に随喜されまして、ご永住の志をかためられたものであります。
お草鞋をぬがれて六年後の四十八才( 1 2 2 0 ) の早春、はじめて御本書『教行信証』選述の素意を教名房にもらされるとともに、帰敬のため御本尊の彫作を仰せいだされました。教名房は宿縁到来とて、前記、祖父伝来の秘材を由来を具して献上すると、聖人莞爾と受けとられ、日夜ご精魂のすえ、旬日にして尊像をご成就あそばされたということであります。
それから、この尊前において御本書著作の筆をとられ、五十二才( 1 2 2 4 )脱稿、それより推敲清書に五十六才まで前後九ヶ年を閲しました。その執筆の地は笠間草庵より西方一里、稲田沢黄楊谷という所で、聖人はひとりこの山中に「隠居したもう」( 御伝鈔) て畢生の大業を完成されたのであります。
聖人はご帰洛の砌、深き因縁の故をもって、この御本尊を教名房に附与せられたものといわれ、「浄土真宗開闢の本尊」、或は「立教開宗の阿弥陀如来」として、宗祖、恵信尼、覚信尼のご真筆書画十数点と共に、7 5 0 年来当山に伝わるところであります。